俳句とSNS
小林 昌廣
芸術療法というものがあります。
これは、さまざまな芸術表現を利用して、身心に障害を持った人やお年寄り、それに子どもたちに、一種の「こころの安定」をもたらそうとする心理療法の一種です。「療法」と言っても、それで病気が治ったり、突然元気になったり、ということはあまり期待できません。ですが、病気に立ち向かっていこう、とにかく一日を無事に過ごそう、あるいはちょっとだけ元気が出た、といった「効果」は十分にあります。
芸術療法においてもっとも重要なことは、それがいわゆる「芸術表現」とは異なっているという点です。「芸術表現」は、何よりも〈完成された作品〉が鑑賞や評価の対象となります。しかし、芸術療法においては、完成された作品を提出することが最終目標ではありません。そして、鑑賞や評価といった態度すら必要ではありません。
大切なことは、「何を創造(想像)する」という過程なのです。完成品をつくったり、展覧会に出品されたり、一定の貨幣価値をもって売買の対象になったり、なんらかの権威ある賞を受賞したり、そうしたきわめて世俗的な芸術表現のありかたからすれば、圧倒的な極北に位置しているのが芸術療法なのです。
そのために、「芸術」という言葉に抵抗をもつ医療者やアーティストも少なくなく、現在では「創造療法」とか「表現療法」と呼び習わすことも多くなっています。表現の結果ではなく、過程を重視する方向性のあらわれと見てとることができるでしょう。
芸術療法は、具体的には、絵画療法、コラージュ療法、音楽療法、舞踊療法、箱庭療法、陶芸療法、造園療法、書道療法などさまざまなものが開発され実践されていますが、そのなかに俳句療法があります。
俳句療法は、もちろん海外では存在しえない療法ですが、広く詩歌療法のひとつとして知られています。別の言い方では韻文療法とも言えるでしょう。つまり、一定の字数制限や行数制限のある文章表現をつくるという方法です。自由な分量で言語表現をするのではなく、敢えて制約を設けることで、言葉の選択、接続、言い回し、レトリック(比喩など)といった細かな技術に裏打ちされた表現が生まれることになります。
とは言っても、もとより名作や名文を完成させることが目的ではありません。むしろ、完成に向けて、ふだん使っている日本語というものの適用範囲を最大限に広げて、日本語のもつ自由度を自在に利用して、何よりも自分がいま何を考え、何を思っているかを言語化しようとする、その「書こう」という意識の流れが大変に重要なのです。
ただ、ここできわめて興味深い事実があります。俳句療法は、それなりに方法論も確立されて実践されているのですが、短歌療法はあまり評判がよくないのです。なぜでしょうか?
もっともわかりやすい理由の一つは「長い」ということかもしれません。五・七・五という十七文字でせっかく自分だけの言語世界を構築したのに、あと七・七と加えなければならないということは、つくり手にとっては少なからずストレスになるものでしょう。別にもう一句つくるというのではなく、すでにできあがった句に十四文字付け加えて全体を完成させなければいけないわけですから(もちろん、本来は、短歌はそのような構造をもってはいないのですが)、とくに精神的に弱い人がつくり手の場合には、エネルギーが続かなくなってしまうのでしょう。
ただし、「長さ」という点から短歌療法の問題点を考えることには無理もあります。 なぜなら、連歌療法というものは意外にも成立しているからです。
おそらくは、連歌療法の場合は、他人のつけた上の句(五・七・五)に対して下の句(七・七)をつけたり、その逆であったりと、いずれの場合も複数の人間によって、いわば合作として表現が行われるわけですから、そこには短歌療法によってストレスとなる「ひとりで付け句をする」という行為が設定されていないことに対する、気分的な軽さというものがあるのでしょう。
また、(これは可否両面あるのですが)ひとりではなく何人かの人たちと、リズミカルに作句してゆくという運動性とゲーム性のようなものが、やはり表現へのアプローチを気楽なものにさせているのかもしれません。
芸術療法としての俳句療法や連歌療法は、思考される言葉、発せられる言葉、まとめられる言葉といった日常言語を、いつもとは違った使用法や結びつけ方で発展させる高度な言語芸術でありますが、それ以前に、ふだんなかなか言語では表現できなかったり、伝達できなかったりすることを、俳句や連歌といった形式のなかにセッティングすることで、自分の小さな分身を幾つもつくり続ける行為である、と言うことができると思います。
実際、俳句療法という枠組みでつくられた俳句の多くは(当然のことなのですが)、あまり俳句の体裁を成していません。季語がないのは普通ですし、五・七・五といった字数もあまり守られていません。どちらかと言えば川柳に近いノリと身体性がそこにはあります。すべての場合がそうであるとは言えないのですが、俳句は、つくり手が対象物(それは人であっても動物や植物であっても景色であっても季節のうつろいであっても構わないのですが)といかに対峙しているかを言語によって説明する技術であり、また対象物から発せられた非言語的な表象を言語に翻訳する行為である、と思われます。その意味では、俳句療法を施される人びとは、多くの場合自身の内面をあまり外に出すことが苦手な人ばかりですから、対象物という「外部」をあまり持たないために、自身の内面と外部の世界が、ぶっきらぼうなカタチで、とりあえず吐き出された言葉によって結びつけられるという刹那性を有しています。もとより「完成」や「完全」をめざした行為ではありませんから、まったく問題はないのですが、彼らのそうした作句方法は、言語という伝達装置によって内部と外部をなんとかつなげようとしているのだと言うことができます。
カウンセリングでひとことも言葉を発しなかった患者が、俳句療法においては、じつにユニークな言語世界を見せてくれる、といった事例は決してめずらしくありません。彼らはカウンセラーと会話をする言語は持っていない(あるいは忘れてしまった)かもしれませんが、自身の内面の言葉をいささか乱暴で不分明なカタチではありますが、世界に対して叩きつけることができるのです。
芸術療法は、その名に反して、直接的な「治療効果」はあまり期待できないと述べましたが、治療以前の、医療者やカウンセラーや家族、そして何よりも自分自身とコミュニケーションを円滑に行うための、人間にとって標準装備のツールである言語の使用法へと立ち戻らせる力があるのではないか、ということは考えられます。
精神医学においても心理学においても、そこで用いられるもっとも重要な要素は言語です。言語によってコミュニケーションが生まれ、言語によって気づきや発見、創造が生まれるのです。芸術療法としての俳句療法は、慣れ親しんだ言語を、五・七・五という古くて新しい枠組みのなかで思考し直すことで、新たな言語習慣を獲得する方法でもあるのです。 芸術療法としての俳句療法においては、日常の言語生活すら疎ましいと思っている人たちが、そこで新たな言語世界を創造することができると言いました。しかし、現在は、こうした特殊な場合を除いては、小説のなかにおいてすら、新しい言語世界を垣間見ることはできなくなっています。言語は疲弊し、痩せ、誤解される一方で、暴力的に、侮辱的に、時として非人間的に用いられることが普通になっています。
人びとの交わす日常会話からテレビのバラエティ番組でのタレントたちの言葉、あるいは政治家の答弁や失言にいたるまで、あらゆる場面において言語は、言語の本来的なありかたは希薄になりつつあります。
言語はその形式も内容も希薄になるばかりでなく、それと同時に平坦なものとなってゆくでしょう。誰かが用いた表現や造語を反復し拡散させ、それによって「書き手」の存在を見えなくさせ、誰が書いたかわからないけれども誰でも書いている文章、というものが生まれることになります。
そうした「言語の平坦化」に拍車をかけたのが、こんにちのSNS(ソーシャルネットワークシステム)というものです。いま、コンピュータを用いてインターネットに接続し、「SNS」と入力し検索すれば、たちどころにしてその意味内容の書かれたサイトを開くことができます。「インターネット上の交流を通して、社会的ネットワークを構築するサービスのこと」と書かれてあります。具体的には、投稿型のウェブサービスである、Twitter、LINE、facebook、google+やさまざまなblogのことをさします。
わが国の総理大臣やアメリカ合衆国の大統領が「公的」にこうしたサービスを利用しているのですから、新聞やテレビにおける報道メディアの次のツールとして注目を集めているのは当然のことでしょうし、実際には多くの人たちは、新聞やテレビの情報をこうしたSNSによって知るでしょうし、それらについての「個人的見解」を不特定多数の利用者に発信することも可能になります。
いわゆる「公人」と称されるような人びとの動向は、最近では彼らの発信するtwitterやblogを主な情報源として報道されることが当り前になっています。ですから、熱心なSNS利用者たちは、マスコミよりもはるかに早く、発信者が公開した瞬間にその内容を知ることができるようになります。
また、なんらかの災害や大きなイベントなどの際にもこうしたSNSは多用されるのですが、そのときに発せられる言葉は、リアルという表現が吹き飛ぶほどの、まさに現場から噴出する言語の渦として理解することができるでしょう。
こうした特性は、従来の情報発信メディアでは実現しようもなかったことですが、SNSによって双方向型の社会ネットワークが構築されることになったわけです。
もちろん、ここで言われている「社会」というものは、きわめて曖昧な表現であり、「双方向」とは言っても、それが平等な立場にあるわけではない、ということはよくよく認識しておかなければなりません。それゆえに中傷や名誉毀損、あるいは情報操作やアカウント乗取りといった、現代的な現象が生じることになるのです。
そうした決して愉快ではないできごとの原因でもあり同時に結果でもあるのが「言語の平坦化」というものです。
言語は本来多様な意味をもつメディアであり、それゆえに「俳句療法」のような、言語の多様性を上手に利用したセラピーが成立することになります。あるいはさまざまな修辞の技法があり、誤用を敢えて利用するなど、「遊び方」にもいろいろあるのです。
もちろん、SNSは文学的な作品を構築することが目的ではありませんから、言語のもつそうした多様性をおおいに発揮する必要はなく、むしろ、円滑な社会的コミュニケーションさえとれていれば構わないのでしょう。しかし、SNSをめぐるさまざまなトラブルの事例をあげるまでもなく、言語表現の自由を謳歌することができずに、きわめて記号的な言語のやりとりがかえって感情的な反応を生み出し、表層的な人間関係の愚かさを露呈させてしまうことにもなるのです。
ところで、Twitterの場合には、一回の投稿で140字という字数制限があります。これはもともとは携帯電話からの投稿が多かったために、携帯によるSNS投稿の字数制限に合わせて文字数が決まったと言われています。そうした運用上の理由があるにせよ、投稿に字数制限があるというのは興味深いことのように思われます。
つまり、投稿する文章の内容がいかに感情的であっても、政治的であっても、批評的であっても、そこに「節度」が導入されているからです。人はどんなことをつぶやきたくても(「つぶやく」というのはTwitterに投稿すること意味するわが国独特の表現です)、その140字という字数を超えて表現することはできないのです(もちろん、連続投稿という手段はありますが、それはTwitter本来の利用意図とは別の使用例と捉えることができます)。これは、ある意味で意味のない文章や恨みや怒りに満ちた言葉の垂れ流しなどを防止する効果もあるかもしれません。ですが、一方で「文章を抑制的に書く」ということを投稿のための「節度」として設定している、と言うこともできましょう。
140字という字数には技術的理由しかありません。日本語の特性や会話の構造を十分に検討したうえでの制限ではないことは言うまでもありません。ですから、人はその技術的制約に従って文章を打ち込まなければならないのです。そこに、言語の新たな運用法や文法構造、修辞法などが生まれてくる可能性が十分に存在するでしょう。
しかし、そんなことはすでに遥か以前からわが国では俳句という表現によって行なっていたのです。SNSのような地球規模の社会的コミュニケーションをめざすことはありませんが、十七文字という世界一制約の厳しい文字数で、世界を一瞬にして断片化したり、凍結化したり、あるいは圧縮化したりすることのできる表現として、俳句は存在していたのです。
いささか乱暴な言い方をすれば、Twitterを上手に用いることのできる人たちは、もしかすると俳句のような韻文表現に対しても、さしたる垣根もなく接近することができるのではないかと思うのです。ただし、言うまでもなく、そこにはあらゆる意味における「節度」が要求されますし、Twitterではふだんすることのない、言葉の選択、表現の工夫、固有の修辞などの独特の技術が必要にはなります。
俳句と言えば誰でもその名を知っている正岡子規(1867-1902)は『俳諧大要』(明治二十八年)の「第四 俳句と四季」において、四季の題目があれば季節を連想させる例として「蝶」を挙げています。
例えば蝶といえば翩々たる小羽虫の飛び去り飛び来る一個の小景を現わすのみならず、春暖漸く催し草木僅かに萌芽を放ち彩黄麦緑の間に三々五々士女の喜遊するが如き光景をも聯想せしむるなり。この聯想ありて始めて十七字の天地に無限の趣味を生ず。(原文は旧字旧仮名、以下同様)
「天地に無限の趣味を生ず」とはいかにも子規らしい、ダイナミックかつおおらかな言いぶりだと思います。しかし、これに続く「第五 修学第一期」において、子規は、俳句をつろうと思う者は、十七文字の字数や四季の題目や文章の技巧などを気にすることなくどんどん作っていくのがいい、と教えています。さらに(これは現代でもしばしば見受けられますが)、俳句を理解する方法として「作者の理想」(作者が何を言いたいか)を探そうとする者が多いが、「俳句は理想的の者極めて稀に、事物をありの儘に詠みたる者最も多し」と記し、芭蕉の有名な句「古池や蛙飛び込む水の音」を挙げて次のように述べています。
作者の理想は閑寂を現わすにあらんか、禅学上悟道の句ならんか、或は其他何処にあらんかなどと穿鑿する人あれども、それは只々其儘の理想も何も無き句と見る可し。古池に蛙が飛びこんでキャブンと音のしたのを聞きて芭蕉がしかく詠みしものなり。
子規が指摘していることはふたつの意味において「現代的」であると考えられます。ひとつは、芭蕉のこの句から「解釈」の可能性を奪って、ただ蛙が古池に飛びこんだときの音を俳句に詠んだという点です。これは現在で言うところのSE(サウンドエフェクト=音響効果)につながる考え方です。SEでは、人が慣れ親しんでいる音は無論のこと、人が耳にしたことの無い音もつくらなければなりません。後者の場合は、音そのものではなく音のイメージをできるだけ集積し、濃密にしてから然るべき音が構築されることになるでしょう。ただし、人が知っている音に関しては、たとえば宮﨑駿監督のジブリ映画でしばしば聴くことができるように、さまざまなSEを「人の声」で表現しています。その場合は、現実に近い音を「再生・復元」するのではなく、「そのように聞こえればいい」といった、わりあいに緩めの音に対する捉え方を宮崎監督はしているわけです。芭蕉のこの句も、実際にこんな音が聞こえたとは詠んでいませんし、それはすべて読む者に任されているわけです。子規は「キャブン」という、いささか奇妙なオノマトペを採用していますが、蛙が池に飛びこむ音は(多くの現代人にとっては想像的なものでしかありませんが)、それぞれ人によって違うでしょう。その意味では、俳句における解釈の多様性、あるいは解釈の無意味性を子規は論じているのです。正解はありません。読む者が「その音」を想像できてもできなくても、この句は敢然と成立しつづけるのです。
もうひとつは、芭蕉のこの句に対して的確な見解を述べているひとりのフランス人を挙げることで理解が容易になるでしょう。そのフランス人とはロラン・バルト(1915-1980)です。フランス屈指の批評家であるロラン・バルトは、1966年に日本を訪れますが、その時に彼に鮮烈な印象を与えたのが俳句でした。俳句はもちろん英語にもフランス語にも翻訳されておりました。フランスではひとつの句が三行の「詩」として表現されます。バルトが『記号の国』という日本論のなかで紹介しているのも、やはり芭蕉のあの句なのです。
古い池、 蛙が飛びこむ、 おお、水の音よ。
バルトに言わせれば、フランスでは(現代の日本でも同断ですが)、こうした作品を「解釈」するときには必ず意味を見出そうとするのです。ほとんど権威的に意味の体系のなかに俳句を持ち込もうとするでしょう。バルトはそれを「意味の不法侵入」と名づけ、自らのテキストの表題にもしています。「俳句では、象徴も隠喩も教訓もほとんど手間がかからないかのようだ。せいぜいいくつかの言葉とひとつのイメージとひとつの感情があるだけなのだから」とバルトは述べ、意味づけるという解釈の可能性(あるいは常套性)を否定します。しかし、西洋的には文学表現に対して「解釈」を施さなければそれは文学表現として成立しないことを意味してしまいます。解釈によって得られた意味が、作品としての存在を意味することになるのです。そうなれば、「俳句について語ることは、もっぱらその句を繰りかえすだけになってしまう」ことになります。
バルトはそれで構わないと喝破します。「解釈という方法では、俳句をとらえそこなうことしかできない。なぜなら、俳句にむすびついた読解の作業とは、言葉を誘発することではなく、言葉を中断することだからである」。俳句は言葉の中断、意味の中断である、というのが、後の作家活動に大きく影響を与えた俳句についてのバルトの結論でした。 もちろんそれは、中途半端なところで表現を終わらせてしまう、という意味ではありません。端的に言って、俳句は「…という意味である」ではなく、「これだ!」ということになるのではないでしょうか。ただし、理屈でなく感覚で理解しろ、といったごく単純な俳句理解とは一線を画していると言えるでしょう。そもそもバルトは、「理解すること」の可能性から遠ざかることを目指しているのです。それがどんなに批評的な解釈であっても、感覚的な読解であっても、そうしたひとつの意味世界(あるいは感覚世界)に押し込めることを否定しているのです。
国も時代も立場も異なる正岡子規が、『俳諧大要』において、四季の題目があれば「天地に無限の趣味を生ず」という言い方をしていますが、バルトは「意味の中断」として俳句を捉えているのに対して、子規は「意味の無限化」として俳句を把捉しています。いずれにせよ、特定の意味へと俳句を回収しない、という点においては、両者は共通した地平を有していると言うことができるでしょう。
意味の中断、あるいは意味の無限化。俳句と同じ「字数制限」という構造をもつTwitterではそうはいきません。(仮にそれが悪意や敵意であるとしても)そこには「意味」しか存在しないからです。しかも一律の意味によって構成された世界が静かにそこにあるわけではなく、拡大解釈、曲解、誤解などによって変形された意味世界があるばかりなのです。
しかし、俳句とTwitterとのあいだには、まだなお共通性があるのではないかと思うのです。それは、発句ないし投稿するときに書き手がもつモチベーションであり、それを行なうときの運動性です。正岡子規は、俳句をつくる者は「事物をありの儘に詠みたる者」が多く、その対象として四季の移り変わりなどを重視しています。つまり、自分の身体の外側の「何か」に気づくことが、発句の第一歩ということになるでしょう。Twitterの投稿者とて事情は同様であり、「何か」思うところがあったからこそ140字の制限内で言葉を紡ごうとするのでしょう。さらに、両者は特定の誰かに向けて発せられたものではない、という共通点もあります。Twitterで投稿することを、わが国では「つぶやく」と言うように、それは自分自身にすら向けられていない、いわば「読み手のいない文学」であると言ってもいいのです。
俳句もまた、ある意味では「読み手のいない文学」なのかもしれません。「事実をありの儘に詠みたる者」は、特定の誰かに向けて、その「事実」を訴えたいわけでもつぶやきたいわけでもありますまい。芭蕉の「古池や…」の句を、子規は「只々其儘の理想も何も無き句」と断じます。ロラン・バルトは「意味の中断」と指摘します。俳句という言語表現を「解釈」という別の言語表現に変換するのではなく、俳句によって切りだされた世界をただそのまま感得することの大切さと難しさとを、子規もバルトも同様に述べているのではないかと考えられるのです。
同じ「読み手のいない文学」であっても、Twitterにはそのような側面は希薄です。むしろそこには(たとえ「無意味」であっても)意味だけが横溢しています。Twitterには、ある人の投稿が気に入れば、それを自分のフォロワーにも拡張するリツイートという手法があります。それは言葉をつなげてゆく連歌的な構造をしているように見えますが、一人の投稿文がただただより多くの読み手へと垂れ流されているにすぎません。そして、リツイートが際限なく繰り返されることによって、投稿文の意味は一定の意味へと収斂していきます。その「意味」は、あるいは投稿者本人の意図したものとは別のものに変容しているかもしれません。しかし、Twitterにおいては(俳句がそうであるように)、表現されたテキストがすべてですから、意味は「発信者」ではなく「受信者」によって見出されることになります。つまり、子規が俳句に対して指摘した「事実其の儘」とは、作者が感得した「事実」であるのか、それとも読み手によって発見・発掘された「事実」であるのか、ここでは不明です。もっとも、子規自身は俳人ですから、ここでは「作者の捉えた事実其の儘」と理解するほうが自然であるかもしれません。
Twitterとて投稿した人の印象なり意見なりがつぶやかれるのですから(そしてそれが「事実」であるかさえ問うことはありませんが)、本来は「発信者」側に意味は委ねられているはずです。ところが、ひとたび不特定多数に発信され、ある程度の公共性をもつようになると、Twitterは、投稿者が目論んだ「意味の構造」はもはや明確なものではなくなります。ロラン・バルトの述べた、俳句における「意味の中断」とは少々異なるのですが、ここでも意味は(あるいは意味を問うことは)宙吊りになっている、と言えるかもしれません。 Twitterは「意味」しか存在しないと前述しました。しかし、そこで言う「意味」とは解釈者側にとっての「意味」であって、発信者側のそれではないということです。俳句の場合は、「意味」は中断され、分散化され、そこではいつのまにか「書き手=主語」の存在さえ消えてしまいます。十七文字という定型のなかに圧縮された「世界(あるいは世界という描写)」だけがそこに存在するだけなのです。「古池や蛙飛びこむ水の音」は、それのフランス語訳が明らかにしているように、「古い池」と「飛びこむ蛙」と「水の音」しか存在しないのであります。もっとも、フランス語訳では「おお、水の音よ」という具合に、読み手(解釈者)の感慨が、あたかも作者のそれであるかのように偽装されており、原文の俳句には出てこない感嘆詞が加えられています。この理解では「水の音に感動している作者(ないし読み手)がいる」ということになり、そこには明らかに書き手の存在が見えてしまうことになります。事実はそうなのかもしれませんが、俳句の描く世界では、書き手(水の音を聞いた者)は十七文字から完全に消えております。眼に見える古池や蛙、そして耳に聞こえる水の音、そうしたものだけが冷厳と立ち現れていることこそ重要なのでしょう。 繰り返しますが、Twitterはそうした方向性を持ち得ないでしょう。もちろん、Twitterの定型性を利用して、詩的な文章を綴ったり、俳句のような文体を挿入したり、あるいは書き手の存在を可能な限り希薄にして「描写」だけを実現するといった試みはあるかもしれませんが、それらはむしろTwitterの文学的な使用例であって、通俗的な利用法ではないでしょう。Twitterは実名でないにせよアカウントがありますから、投稿者の存在を消し去ることはネットワークの構造上においても不可能です。しかし、それがリツイートというカタチで伝播されるようになると、投稿者は「誰か」という曖昧な存在として希薄化しつつも生き続けるのです。
よく言われることですが、Twitterでもblogでも、投稿者が死亡してしまってもログ(投稿記録)は残りますから、ネット上ではあたかもその人物が存命であるかのように読み続けられることになります。それは、いわゆる文学的な表現などに対してSNSはまだ歴史が浅いですから、人間の生涯を超えるような時間を経たわけではなく、まだ「書き手は生きている」と信じられる程度の寿命しか持っていないということなのかもしれません。ただ、そうしたことが云々される限り、Twitterやblogは、(それが匿名であっても)まだ書き手の存在を前提としている、ということになります。芭蕉の「古池や…」の句は、俳諧の大成者松尾芭蕉の名前とともに記憶されていることは自明ですが、芭蕉がまだ生きていると考えることはありませんし、作者芭蕉というクレジットは、俳句で描かれた世界とは切り離して理解する必要があるでしょう。
Twitterと俳句、歴史的出自も方向性も意味内容もまったくちがった表現方法を比較してきました。Twitterのように、文字数の決まった伝達表現は、発信者の側に一定の「節度」を与える可能性があります。俳句のように、きわめて短い表現形態のなかには、それゆえに(見えない主体も含めた)無限の世界を圧縮して描写する力があります。Twitterのもつ簡便さや伝達性を利用しつつ、俳句の表現力や文学性を組み合わせることで、言語表現をより豊かな方向へと導くことができるのではないか、そして、それこそが21世紀における俳句の新しいありかたなのではないか、そう考えたいのです。
情報科学芸術大学院大学[IAMAS] 教授・IAMAS図書館長
小林 昌廣 教授
1959年東京生まれ。
医学と哲学と芸術を三つの頂点とする三角形の中心に「身体」をすえて、独特の身体論を展開。医学史・医療人類学から見た身体、古典芸能(歌舞伎、文楽、能楽、落語)から見た身体、そして現代思想とくに表象文化論から見た身体などについて横断的に考察している。各地で歌舞伎や落語に関する市民講座や公開講座などを行なっている。
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